2008-02-05

根性VS冷蔵庫


今日は、午前中に冷蔵庫の修理の人が来るというので、朝から主人が家にいた。見知らぬ男性が来るので、私がひとりで対応したら危ないという理由からだ。

うちの冷蔵庫は去年も一度壊れて、ちゃんと冷えなくなり、修理を頼んだばかり。それなのに、また壊れた。何でこんなによく壊れるわけ?と少しイライラ。全体的に温度が高めになってしまって、冷凍庫のものは、みんな解凍し、もはや冷凍食品とは言えない状態。アイスクリームはドロドロクリームになり、うちの犬に特別デザートとして支給。冷凍濃縮オレンジジュースはいつものように3倍に薄めても変な味なので、流しにドバドバ。冷凍春巻きの皮はなんとか大丈夫そうだったから、昨夜の夕飯に登場させてオッケー。結構みんなに受けた。冷蔵庫は私にとってものすごく重要なものなのだ。この家の食事番としては本当に早く何とかして欲しい。

でもこれは、主人のケチ根性の格好の証明。
「ねえ、この冷蔵庫、買って何年になるの?」
と聞いたら
「えっと・・・17年だね。この家を建てたときからずっとあるから。」
私は、
「え、そうなの。すごい・・・」
と口ごもってしまった。そんなに古いんだ。もはや化石化してる気がする。17年経っててもまだ修理しようっていう考えが大したものだ。ただの根性じゃない。日本じゃ10年もしたら買い換えたりするんだけどね、と思った。 それとも、一日三食プラスお弁当をしっかり作る私の冷蔵庫使用頻度が、普通の人の数倍なのだろうか。
「明日、修理の人に来てもらうよう頼んだから大丈夫。24時間後には何の問題もなくなってるよ。よかったね。」
と主人が言うのを半分上の空で聞きながら、
私は、ああ、明日、修理の人来たら、「これはもうダメです。買い変えないといけないですよ」って言ってください・・・とひたすら念仏のごとく唱えていた。

午前中に修理の人は間違いなく来てくれた。対応は予定通り主人がし、私は2階にいた。15分もしないくらいで主人が2階の私のところにやって来た。
「ダーリン、終わったよ。もう帰ったから。」
と言う。
「え、もう直ったの?ずいぶん早いんじゃない?そんなに簡単に直っちゃったんだ。」
と聞くと
「いや、もうダメだってさ。完全に壊れちゃてて、全部品とっかえて直すくらいなら、新しいのを買ったほうが安いですよって言われた・・・」
それを聞いて、実に残念そうな顔をしながら、下を向いて、「よかった・・・!やったじゃーん!」とほくそ笑んだのだった。
台所のカウンターの上に置いてあった修理の紙。取替え部品の欄に「冷蔵庫そのものの取替え」と書いてあった。



2008-02-02

悔しい

すごく悔しい。
私がやってきた子育ては、私には誇れるものだと思っていた。私の選択で「いい」と思ったことをがんばって実行し、出来る限り一生懸命にしてきた。
息子は、立派に育っている。
大学卒業後の進路も、自分で努力して切り開き、希望のところに決まった。彼は、まるで出陣前の戦士みたいに、世の中に出ていくことを自分の勝負だと感じている。「よっしゃ、やってやるぞ。これからが本番だ。しっかりやって自分を試したい!」と希望とやる気に燃えてワクワクしている。

私は、子育ての究極の目的は、子供を社会に還元することだと思っていた。
子供時代は親と一緒に過ごし、その期間、親は子供を自分の所有物のようにかわいがったり大事にすることができるが、実はそれはつかの間の話で、いずれは子供は親の元を去り社会に羽ばたいていく。子供は、神様から一時的に自分たちの元に預かったものに過ぎないのかもしれない。だから、私は、子供が羽ばたく時に、しっかりと自分の足で立ち、自立して責任のある行動を取れるように、社会で信頼され人々の役に立ち、立派に活躍できるように、と子育てをしてきた。そして、息子は、自分の足で歩き始めようとしている。私は、息子を安心して見ていることができる。彼は、自分の力でしっかりと生きていける。どんな困難も乗り越えて、自分と自分の周りの人を幸せにしていくことができる。そんな確信がある。
息子の小さい頃、小学校時代、中学校時代、高校時代には、それぞれに葛藤があり、もがき苦しみ、立ち往生し、先が見えなくてどうしていいかわからなくなることもたくさんあった。母親ひとりで出来ることには限りがあったけれど、がんばってやってきたことが報われている気がする。
そういう意味では、私は自分のしてきた子育ての「趣旨」「方法」にそれなりに自信を持っていた。

「まったく、君の子供は自立し過ぎている。そりゃそうだろね、だって君がそういうふうにしようと意図して育ててきたんだから、その通りになってるんだよ。でも、それがいいとは思わないね。もうここまで来たら、今更直せないだろうけど。」
主人のイーサンの中にある「私のしてきた子育ては間違っている」という考え。
「マリーは、家族というものを知らないよ。家族よりも友達の方がいいと思ってるし、自分のしたいことを自分でどんどん決めてしまう。子供は親と一緒にいるべきなんだ。自分勝手にしたいことを決めるんじゃなくて、親の言うことを聞くべきなんだ。そうやって家族の中できちんと生きることが、将来きちんと家族を持って幸せに生きるために必要なんだ。マリーにそれが欠けていることがわからないのか。」
彼女の「親」とは私だ。「親の言うこと」とは、私の言うことだ。彼女にとって、主人の言うことは親の言うことににはならない。なぜなら主人は突然現れた継父に過ぎないのだから。
「確かにね。マリーが決めてることは、君が彼女にして欲しいと思ってることだよ。その通りになってるんだよ。親の言うことなんて聞かなくても、自分のしたいようにするってこと。それが君の子育てだ。君がそうやって生きてきたんだ。」
マリーも、私の子育ての「趣旨」に沿って私の「方法」で育てた。数年前まで何も迷うことなくそうしてきた。自分の意思をしっかり持ち、自分のしたいことをあくまで実行しようとする。「どうしていいかわからない・・・」とか「何もしたくない・・・」とか言うのではなく、「こうしたい!」とハッキリ言う。そう、それは、私がそうなるように意図して子育てした結果なのだろう。
でも、それは「いけないこと」になることもあり得るのだろうか。自分のしたいことと親の言うことが一致しない場合はどうなるか。自分の意思が強すぎて、親の言うことを聞けない場合はどうなるのか。

イーサンの子供たちは、親の言うことを実によく聞く。本当に高校生?と疑いたくなる。少し無謀な父親の意見に「ムッ」としながらも、結局はその通りにする。子供たちからの「嘆願」が出ても、「鶴」の一声でシュンとなる。それは、彼がそういう子育てをしてきたからだ。親の言うことは常に矛盾せず一貫していて「ダメと言ったらダメ」、親はいつも威厳を持っていて、絶対に服従が鉄則。家族で一緒に過ごす時間を大切にし、なるべく定期的に一緒に何かする時間を設ける。子供たちには「勉強、勉強!」とは言わない。うるさく言うのは寝る時間。睡眠は大事、寝不足だと何も集中できないんだと、就寝時間にだけはうるさい。子供たちはかなり成績がよく、スポーツもよく出来る。「まるで」理想のようだ。
そう・・・「まるで」ね。

何が正しいかなんてわからない。何が一番いいかなんてわからない。
「話し合いなんかじゃないよ、これは。君がこうしたい、って言ってるだけじゃない。僕の意見を聞きたいだなんて、違うよ。僕を説得しようとしてるだけだ。勝手にしたらいいよ。結局、君は自分のしたいようにするんだ。マリーにしたいようにさせるんだ。それがどういうことかもわからないで・・・。僕は、君とは違う意見だ。説得させようとするなよ。僕の意見はいつも同じ。納得はできないよ。ただ、君がそうしたいならさせてあげてもいいよ。マリーがしたいことを君がさせてやりたいなら、させればいいじゃない。君は何があろうとそうしたいんだ。ただ、僕は絶対にいいとは思わないっていうことだけ、覚えておいて。」
平行線の会話。とても後味が悪い。
「あなたとは会話が出来ないわ!話し合いにならない。」
「会話?今したじゃないか。一時間も。君のは話し合いじゃないんだ。この話はいくら話しても同じだよ。」

悔しい。すごく悔しい。
喧嘩でも喧嘩でもない話し合い。変な言い合い。だから、仲直りも何も・・・。
ああ、今日の夜は、コンサートに一緒に行く予定なのに。
ああ、悔しくって頭にくる。